サイバネzero感想
多分、sideMを純粋に楽しんでいる方とは違う観点の感想なのでその点を理解してご覧ください。
私はまず、前作サイバネが好きではありません。
その理由の一つにロボット三原則について語られていない、というのがあります。
ロボット工学三原則というのは
- 第一条
- ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。
- 第二条
- ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
- 第三条
- ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。
と言われています。
いかに近未来とはいえ、アンドロイドものを扱うからには、この点を語らずにSFは描けないんですよ。
だというのに、サイバネはいきなりアンドロイドと人間は敵対している、という点から始まる。
アンドロイドと人間の敵対というのは実はよく題材にされやすいのですが、その目的は大抵が「自分達を作った人間を幸福にする為」というあくまで、人間に危害を加えているわけではない、という考え。
あるいは「ロボットの繁栄の為には人間が邪魔」という考えですね。
ロイはこの後者なのですが、軍用アンドロイドである彼らがどのような扱いを受けていたのか、人間はこの世界で何をしているのかがいまいち描かれていないので共感しにくいのです。
もしも此処でロイが実は人間に裏切られたシーンが映像化されていればいいのですが、何故裏切られたのか、何故反乱することを決めたのか入れられていないこと(一応はあるのですが、やはり納得がいかない)、
また、裏切りものとはいえ、ノリスを自らの手で破壊。自分がエルの話を聞かないせいでエルが死んだのに人間に責任転換するなどという微妙な小物臭さがどうしても私は好きになれませんでした。
アンドロイドの王でありながら、正直、隙があるというか機械的でない、悪く言えばアンドロイドの王なのにアンドロイドらしくないというこの点がネックに感じていました。
彼がもっと計画的な人物だったら余りそこまで不満を抱かなかったけれども、彼をボスにするにしては私はちょっと無理があるかなと思いました。
私が同じく好きなロボット映画で「アイ,ロボット」というものがあるのですがこれはロボット三原則を描きつつ「ロボットによる人間の殺人」がしっかりと描かれているのでぜひ見てみてほしい映画です。
その映画のネタバレになってしまうのですが、とあるロボットが博士を殺害するところから物語は始まります。
殺人をした事によりロボットは人間と近い存在になる、これが悲しい。ロボット自体は博士をとても愛しているし、博士も愛故に命じたのですが、三原則があるのに、三原則を破る事が出来る、という凄いシナリオなんです。
サイバネに話を戻すと、つまりロボット工学三原則がある限り、ロイだろうとノリスだろうとエルだろうと人間の協力者がいない限りは本来ロボット工学三原則を破る事ができないはずなのです。
そこがもやもやしていたのですが、今回のゼロではしっかりそこが描かれていましたね。
『ADAM』を作ったケヴィンはあくまで「人間の希望」を作るつもりでした。しかし、ケヴィンの思惑通り、リクとADAMが親友になっていく。
リクが人間として、警察としてバリィの不正を暴いた直後、『イーサン』の暴走により物語は急展開する。実に王道ですがいいシナリオです。
それぞれの人間が不正行為を働いていたものの、あくまで人間の希望を作ろうとしていたケヴィン、何か思惑を持っていたバリィ(あくまでケヴィンの夢をかなえてあげたかっただけかも?)に対して
あくまでアンドロイドは機械であると考え殺人マシンに仕立て上げた「人間」と理にかなっています。
そして人間が勝つ為にリクの体が一部サイボーグ化する事や、感情と新プログラムによって交互するADAMの感情は非常にいいですね。
アンドロイドであるがゆえに自分のプログラムを自分で書き換えられないという最後のADAMの説明は人間と友情を築く事は出来ても、人間とロボットの違いを実につきつけてくれてとても私は大満足です。
ロボットと人間の違いは感情のあるなしではなく、どこまでがプログラムでどこからが自己の隔離なのかだと思います。
ケヴィンにより感情を与えられ、彼を親として慕い、リクと友情を築き、親友となった。
しかしどれだけ人間に近づいても、ADAMは人間ではない…。
とても丁寧に作られた話だと思います。
サイバネのシリーズとしてではなく個の作品としては100点満点でした。
しかし、これをサイバネシリーズとして見ると大きく味方が変わってしまいます。
つまり、ロボットは自分でプログラムを書き換えられない、と言ってしまったからです。
また、イーサンによるプログラムで狂ったとすればロイの行き当たりばったりの行動もある意味納得できるようにはなっています。
しかし同時にイーサンではなく、何故ロイをおっているのか?(大元の原因を先に捕まえた方がよくはないのか?)、共存しようとしているエルを何故匿わないのか、ノリスとの通信方法を警察の全面的なバックアップがあるのならもっと隠密に出来たのでは?などと突っ込みどころもできてしまったようにかんじます。
だから一度完結した作品はどんなに人気でも続編は作るべきではないとあれほど言ってるのに!!
…普通に何十年か後とかいう設定で良かったんじゃないですかね…?それはだめなんだろうか
そしておそらくはサイバネの続編は出るでしょうね、間違えなく。
CD化してどれだけ売れるのかは謎ですがおそらくこれだけ伏線をぶち込んだのであればいつかはやろうと考えていると思います。
サイバネに関わらず私は自分で創作したりして楽しんでいますが、超常学園もしかり、大正もしかり、スチパンもしかり、
やはり一度終わった作品なのだから続編は作るべきではない、そこで終わるべき。という考えがあるのでどうにも辞めてほしいですね…。
ただ、zeroそのものはとてもいい出来でしたし、今回は凄いSF勉強したんだな、と読んでて感じました。